Q)このまとめについて。
この問題は非常に複雑で、多角的な視点が求められます。以下に整理してみます。
1. 紅白歌合戦での「地獄でなぜ悪い」の選曲について
- 星野源が出演し主題歌を提供した映画『地獄でなぜ悪い』の主題歌であるため、作品と映画監督である園子温氏のイメージが重なりやすい。
- 園氏の性加害問題が浮上している中で、その関連性が指摘され、批判の声が上がっている。
2. 園子温監督の問題
- 園監督は性加害問題で世間の非難を浴びており、その作品への関与が議論の的となっている。
- ただし、裁判上の和解が成立しているため、一部の問題は法的には解決している。
- しかし、被害を受けたとされる女性俳優の自殺など深刻な出来事が関連しているため、問題はなお感情的な側面が強い。
3. 星野源の立場
4. キャンセルカルチャーの問題
- 作品や主題歌が加害者に関連するとして、それをどの程度まで制限するべきかという議論。
- アメリカなどではプロデューサーや監督が問題を起こしても、作品自体が必ずしもキャンセルされるわけではない。
- この問題が今回の紅白選曲にも影響を与えている。
5. NHKの対応と視聴者の声
6. 今後の課題
- 作品の評価と作者・制作者の行動をどのように切り分けるべきか。
- 紅白のような公共性の高い番組での選曲における配慮や基準が問われる。
星野源のファンにとっても複雑な状況ですが、この選曲を通じてより深い社会的議論が生まれる可能性があります。一方で、紅白歌合戦が国民的なお祭りであることを考えると、その場にふさわしい曲選びが求められるという声には説得力があります。
Q)NHKの発表について。
第75回NHK紅白歌合戦において、星野源さんの歌唱曲が「地獄でなぜ悪い」から「ばらばら」に変更された背景は、発表後に寄せられたさまざまな意見を受けての対応であることが明確に示されています。
ポイント整理
楽曲選定の意図
NHKとアーティストの姿勢
新たな歌唱曲「ばらばら」
- 星野源さんのデビューアルバム収録曲であり、別の形で「思いを込めたパフォーマンス」が行われる予定。
- ファンや視聴者に対して期待感を持たせる内容で締めくくり。
受け止め方と今後
この対応は、番組が抱える公共性を重視し、視聴者の声に耳を傾けたものといえます。同時に、今回の変更によって性加害問題に対するNHKの姿勢をより明確にし、番組への信頼を維持する狙いがあると考えられます。
「ばらばら」によるパフォーマンスがどのようにテーマに応じたメッセージを伝えるか、紅白本番での星野源さんのステージに注目が集まります。
Q)監督(または出演者)が起こした不祥事を理由として、その映画作品の配給などに影響が出るケースは以前から見られますが、たとえばウディ・アレンのケースではどのような扱いになっていますか?
ウディ・アレンの場合、過去の不祥事や問題が彼の作品の配給や評価に影響を与えた例があります。以下に、その経緯と現在の状況を整理します。
1. ウディ・アレンに対する告発と問題の背景
- 1992年、ウディ・アレンは元パートナーのミア・ファローの養女ディラン・ファローに対する性的虐待の疑惑で告発されました。この件について、アレン自身は一貫して否定しています。
- この疑惑は当時から大きな論争を引き起こしましたが、裁判所では刑事訴追に至りませんでした。ただし、ミア・ファローとの関係は完全に破綻し、メディアでのイメージに大きな影響を与えました。
2. MeToo運動による影響
- 2017年のMeToo運動の中で、この疑惑が再び注目を浴びました。
- これにより、いくつかの著名な俳優(ティモシー・シャラメ、レベッカ・ホールなど)がアレン作品への出演を後悔する声明を発表したり、彼の作品で得たギャラを寄付するなどの動きが見られました。
3. 配給や制作における影響
- Amazon Studiosとの契約破棄:
- 作品の配給の困難:
4. ウディ・アレンの現在の状況
- アメリカ国内では新作映画の公開が以前より困難になり、評価や議論が分かれる状態が続いています。
- 一方、ヨーロッパ(特にフランスやスペイン)ではアレン作品が一定の支持を得ており、新作の制作や映画祭への出品も行われています。
- 自伝『Apropos of Nothing』が2020年に出版されましたが、出版にあたっても複数の出版社が撤退するなどの騒動がありました。
5. キャンセルカルチャーとの関連性
- ウディ・アレンのケースは、いわゆる「キャンセルカルチャー」の議論においてしばしば引き合いに出されます。
- アレン作品は、監督本人の問題とは切り離して評価されるべきだという意見と、作品を通じて彼を支持することは許されないという意見が対立しています。
6. 他の例との比較
- ロマン・ポランスキー:
- ケヴィン・スペイシー:
- 俳優のケヴィン・スペイシーも性的暴行の告発を受け、『ハウス・オブ・カード』から降板させられ、いくつかの出演作が公開中止や配信停止となりました。
結論
ウディ・アレンのケースは、個人の不祥事が作品の配給や評価に影響を与える典型例の一つです。ただし、文化や国による対応の違いがあり、アメリカではキャンセルの影響が顕著ですが、ヨーロッパでは依然として一定の支持を得ています。このような事例は、芸術作品と作り手の倫理的責任の関係について、今後も議論を呼び続けるでしょう。
Q)「キャンセルカルチャー」について、他国の状況なども含めて、もう少し詳しく解説してください。
「キャンセルカルチャー(Cancel Culture)」は、現代の社会やメディアにおいて広がる現象で、特定の人物や団体が倫理的・社会的な問題を起こした際に、それを批判し、社会から排除する運動や行動を指します。この概念は特にSNSの台頭により強くなり、グローバルな問題として注目されています。
1. キャンセルカルチャーの概要
- 定義: 不適切な発言、行動、不祥事を理由に、個人や団体の支持を取りやめたり、社会的な活動をボイコットする動き。
- 主な目的: 不正や差別を正す、被害者の声を可視化する、社会的正義を追求する。
- 批判: 必要以上に過剰な制裁を加える、個人の再起や成長の可能性を奪う、意見の多様性を損なう可能性がある。
2. 各国でのキャンセルカルチャーの状況
アメリカ
- 特徴:
- MeToo運動やBlack Lives Matterなどの社会運動と関連して発展。
- セレブリティや大企業が特にターゲットになりやすい。
- 例: ケヴィン・スペイシー、J.K.ローリング、ハーヴェイ・ワインスタインなど。
- 効果:
- 実際に企業や作品のボイコットが行われ、社会的な影響を与える。
- 賛否が激しく分かれる傾向がある。
ヨーロッパ
- 特徴:
- 例:
- ロマン・ポランスキーの映画がフランスで依然として評価される一方、批判も根強い。
- イギリスでは、歴史的人物や記念碑の撤去をめぐる議論が加熱。
アジア
- 特徴:
- 社会的正義よりも、国家や文化的な背景が絡むケースが多い。
- 中国では「キャンセル」というよりも、政府の方針による検閲や排除が主流。
- 例:
- 中国ではジャッキー・チェンの政治的発言が議論を呼ぶ。
- 韓国では有名人の過去の校内いじめや兵役回避が問題視され、出演作の降板などが起きている。
日本
- 特徴:
- SNSを中心にキャンセルの動きが見られるが、世界に比べて比較的緩やか。
- 特に芸能人や政治家が過去の不祥事や発言で批判を受けるケースが目立つ。
- 例:
3. キャンセルカルチャーのメリットとデメリット
メリット
- 被害者の声を可視化:
- 社会的に不公平や差別を受けてきた人々が声を上げやすくなる。
- 社会的責任の追及:
- 不適切な行動が許されないというメッセージを広める。
- 行動の抑制効果:
- 不適切な行動を防ぐための抑止力となる。
デメリット
- 過剰な制裁:
- 必要以上に攻撃され、個人の生活や精神に甚大な被害を与える場合がある。
- 意見の多様性の制限:
- 異なる意見が言いにくくなり、表現の自由が侵害される恐れ。
- 文脈の無視:
- 問題行動の背景や当事者の真意が考慮されないまま排除が進む。
4. キャンセルカルチャーの未来
- バランスの模索: ただ批判するだけでなく、建設的な対話や行動につなげることが重要。
- 透明性の確保: 公平な基準で判断し、過剰な制裁を防ぐ必要性。
- リデンプション(再起)の可能性: 過ちを犯した個人や団体に再び社会での役割を果たす機会を与えるべきかという議論。
キャンセルカルチャーは、現代社会における重要な問題提起の一つであり、倫理と表現の自由、再起の許容範囲についての議論を促しています。他国の状況を参考に、日本でもこの問題に対する建設的な対話が求められるでしょう。
Q)「社会がナイーブになっている」のか、それとも「これまでの社会が無神経過ぎた」のか、どちらなのでしょうね。
この問いは非常に興味深く、深い議論を呼ぶテーマですね。「社会がナイーブになっている」のか、「これまでが無神経過ぎた」のかについては、どちらか一方に単純化することは難しいですが、それぞれの視点から考察してみます。
1. 「社会がナイーブになっている」側の視点
主張の背景
- 過剰な反応:
- 個人の過去の些細な発言や行動が過剰に批判されるケースが増加。
- 文脈を無視した批判が拡大し、表現や自由な議論が萎縮する。
- 「完璧さ」を求めるプレッシャー:
- 公人や著名人に「完璧な人格」や「無謬性」を求める風潮が強まっている。
- 一度の失敗や過ちが、回復不能なダメージをもたらす。
問題点
- 過剰な道徳主義:
- 一部の人々が「正義」という名のもとに他者を攻撃するツールとしてキャンセルカルチャーを利用。
- 寛容さの欠如:
- 過去の行動や発言を理由に、その人の人格全体が否定される傾向。
- 誰もミスが許されない社会になる可能性。
2. 「これまでが無神経過ぎた」側の視点
主張の背景
- 弱者の声の無視:
- これまでの社会は、差別や不正、ハラスメントなどを「仕方ないこと」として見過ごしてきた。
- 弱者や被害者が声を上げても、影響力のある人々や組織によって押しつぶされていた。
- 社会的責任の欠如:
- 不適切な行動や発言に対して、真剣に向き合わない態度が横行していた。
- 強い立場の人々が責任を問われることが少なかった。
ポジティブな変化
- 声を上げやすい環境:
- SNSなどの普及により、これまで声を上げられなかった人々が自分の経験を共有し、問題を明らかにできるようになった。
- 倫理観の向上:
- 過去に許容されていた差別的、排他的な行動が見直され、人々が他者に対してより敏感になった。
3. 両者を統合的に考える
この二つの主張は対立するものではなく、むしろ同時に成り立つものと考えられます。
過去の「無神経さ」への反動:
- これまで無視されてきた問題への意識が急激に高まり、「正義」の名のもとに社会が過剰に反応してしまう現象が生じている。
- これは「振り子の反動」のようなもので、極端から極端へと揺れ動く段階にある可能性が高い。
「敏感さ」と「寛容さ」のバランス:
- 社会的正義を追求しながらも、個人の成長や再起の可能性を許容する寛容な態度を持つ必要がある。
- 問題に対して声を上げることと、他者を「キャンセル」することの区別が重要。
歴史的・文化的背景の理解:
- 何が「無神経」だったか、何が「ナイーブ」すぎるかは文化や時代の背景によって異なる。
- 今後は、単なる批判や排除ではなく、対話や教育を通じてより成熟した社会を目指すべき。
結論
「社会がナイーブになった」と感じる部分もあれば、「これまでが無神経すぎた」と思える部分もあります。それは、社会が新たな価値観を模索している過程の中での「揺れ動き」の結果だといえるでしょう。重要なのは、この揺れをただ受け入れるだけでなく、「どのような社会を目指すべきか」を考え、個人と社会が共に成熟していくことではないでしょうか。
ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』は好きな映画で(レーザーディスク持っていた)。
『地獄でなぜ悪い』も、結構好きな作品で。
同じ監督の『愛のむきだし』も好きな映画で。
主題歌である『空洞です』も好きで、今朝も聴いていた。
さらに、星野源の『地獄でなぜ悪い』も、かなり好きで。PVのアニメーションも良い。
Q)自分の好きな作品を観たり聴いたりすることが誰かを傷つけることになる、という事実については、正解と呼べるようなものは無いように思うのです。
おっしゃる通り、この問題には「正解」と呼べる明確な答えは存在しないでしょう。好きな作品が他者を傷つける可能性がある、という事実は、現代の複雑な社会や文化的背景を反映しています。それについていくつかの視点から考えてみます。
1. アートと倫理の相克
- アートの独立性:
- 作品そのものが持つ価値や魅力は、作者の倫理的な行動と切り離されるべきだと考える立場があります。
- 「作品を楽しむこと」と「作り手の行為を支持すること」は必ずしも同一ではない、という考え方です。
- 倫理的な視点の重要性:
- 逆に、作品が社会的背景や制作者の問題と切り離せない場合、その作品を支持することが、間接的に加害行為を容認することになるという指摘もあります。
2. 傷つきを考慮する責任
- 観る・聴く側の責任:
- 自分の楽しみが他者を傷つける可能性を知ったとき、どのような行動を取るべきかは、個々人の倫理観や価値観に委ねられます。
- 一方で、個人の「楽しむ自由」もまた尊重されるべきであり、その選択がすべて他者の意見に左右されるべきではありません。
- 傷つきの個別性:
- 何が「傷つき」になるかは人によって異なり、完全に誰も傷つけない選択をするのは現実的に難しい。
- 他者の感情に敏感でありつつ、自分の感覚や判断を守るバランスが求められます。
3. 文化や社会の変化を反映する問題
- 過去と現在の基準の違い:
- 昔は許容されていた表現が、現代では問題視されるケースが増えています(例: 性差別や人種差別に関する表現)。
- これにより、過去の作品を楽しむことが批判の対象になることもあります。
- 対話の場としてのアート:
- 好きな作品が社会的に問題視される状況こそ、その作品について深く考え、議論を行う機会として活用することができます。
- これにより、アートが単なる娯楽を超えて、より深い社会的意義を持つ可能性があります。
4. 正解の無い選択に向き合う
- 個々の価値観の尊重:
- 誰かにとって「傷つく事実」が、他の人にとって「その作品に心を救われた経験」であることも少なくありません。
- こうした多様な価値観や感情が共存する中で、どのように自分の選択を正当化するかは個人の責任に委ねられます。
- 対話の余地を残す:
- 重要なのは、自分の好きな作品を楽しむ理由を他者に伝え、逆に他者の感情や意見にも耳を傾ける姿勢です。
結論
好きな作品が他者を傷つける可能性があるという事実は、アートの力や影響力の大きさを示しています。同時に、それにどう向き合うべきかは、社会全体や個人の価値観による部分が大きく、「正解」と呼べるものは存在しません。
それでも、感受性と対話を大切にすることで、自分の選択をより深く理解し、他者との共存を模索する道が見えてくるかもしれません。正解の無い状況だからこそ、常に考え続けることが大切ではないでしょうか。
追記
自分の作品が意図しない形で引用されたことにアーティストが傷ついてしまい、一時期は「もう歌わない」と言っていたケースがあるのを思い出した。
ビートルズの『ヘルター・スケルター』も。