この投稿の続き。引き続きClaude Sonnet5と話す
Q15)ここまでのやり取りをそのままブログにしました。そして、今朝になってこんな記事とそれについてのまとめを見つけました。ざっと斜め読みしただけですが、「バラモン左翼はメタ認知が弱い」というくだりには妙に納得するところあり。 資本とフェスの矛盾、というところについては、どちらかと言うと私自身が「矛盾があっても、表現活動というのは須らくそういう側面があるものだろう」という雑な受け容れ方をしているところがあるので、正直なところあまり気にならないのですが。
この「きの」氏のnote、フジロックそのものを主題にした射程の異なる論考ですが、実はこれまでの一連の議論の"もう一つの締め"として機能しますね。
「バラモン左翼はメタ認知が弱い」への納得について
これはピケティらの実証研究——高学歴・文化資本を持つ層が左派を支持し、高所得・資産層が右派を支持するという政党支持の階級的分岐——を踏まえた指摘で、フジロックの文脈で言えば「反戦・環境・多様性を語る参加者の多くが、実はチケット代・休暇取得・文化的コードという排除線の"内側"にいることに無自覚である」という話です。これは、これまで話してきた構造と地続きに見えます。ハイスタへの攻撃で見た「政治について考えないことがどれだけ悪を助けるか」という主張も、菊地成孔氏の投稿への「気持ち悪い」という反応も、ある種のメタ認知の欠如(自分の立ち位置や特権を勘定に入れず、他者の発言の正しさ/不正さだけを裁定する態度)という点では、同じ穴のムジナかもしれません。「バラモン左翼」という補助線は、これまで扱ってきたNCCの議論に、階級・文化資本という物質的な軸を新たに加えてくれます。
「矛盾があっても表現活動はそういうものだろう」という受け止め方について
これは、きの氏の結論部(デュルケームの集合的沸騰、ターナーのリミナリティ、バフチンのカーニヴァル論を経由して、「祝祭は矛盾を解消する場ではなく、矛盾を身体的に可視化する装置として意義を持つ」という主張)と、かなり近い態度だと思います。GEZAN、Gotch、KRAFTWERKS、Massive Attackを名指しして、「彼らを支持しても、俺は愛する人と結婚できず、友達は酷い目に遭い続けるだろう」と書きながらも、それでも祝祭には意味がある、と踏みとどまるくだりは、あなたの「雑な受け容れ方」と方向性が一致していますね。矛盾の指摘それ自体を潔癖に追及するより、矛盾を抱えたまま行為し続けることの方に価値を置く、という態度です。
ここまでの一連の流れ全体を俯瞰すると面白い構図が見えます。Massive Attackの演出(構造の告発)→ 観客・批評家の反応(NCC的収束のサンプル群)→ フジロックという場そのものへの階級論的批判(きの氏のバラモン左翼論)という三層で、それぞれ「告発する側もまた、告発する資格の足場が揺らいでいる」という同じ問題が反復していることになります。マッシヴ・アタックも、フジロッカーも、菊地成孔氏も、ある種「自分の立場の矛盾を抱えたまま、それでも声を上げる」という一点で共通しており、それを潔癖に裁くのではなく「上等だよ」と引き受ける態度こそが、今回のブログ全体を貫く一つの倫理になっているように思えます。
Q16)公演から2日経って、フジロックでのマッシブ・アタックについてXで言及するものを眺める限りでは、単純な礼賛とそれに対する批判、という形で、やはり二項対立的なものが多い印象です。
検索結果を見る限り、確かに「単純な礼賛」対「それに対する批判」が量的には優勢ですが、その中にいくつか、単純な二項対立には収まらない反応も混じっていますね。
印象に残った"三層目"の反応
- 中西B/N・B氏:菊地成孔氏の投稿を長文で批判していますが、これはMassive Attack擁護でも単純な批判でもなく、「批判者への批判」という第三のレイヤーです。菊地氏の「ジェノサイド」という言葉遣いの粗さを指摘し、「音楽を政治に使うな」と言いながら被害者ポジションを取る構造こそ現在の右派言説の典型だと断じている。これは前回の菊地氏批判(川崎大助氏のツイート)とはまったく逆の角度からの、菊地氏批判です。
菊地成孔がこんなネットのウヨクのクリシェに染まった杜撰な文章を書いたのに驚いた。私はMassive Attackの配信を見ていないが、パレスチナ問題でのイギリス帝国主義の役割はきちんとされていたと指摘されてる。これはイギリスでは激しい政治的対立を伴って前提だろう。(続く) https://t.co/J47MEOpCVh
— 中西B/N・B (@NakanishiB) 2026年7月27日
- 吉田淳氏:ブーイングは聞かなかったが、演奏が始まってしばらくすると退場する人が少なくなかった、という評価を含まない観察報告。これは菊地氏が④で提起した「ブーイングの有無」という問いに、行動データで答えている点で貴重です。
マッシブ・アタックへのブーイングは僕のいた範囲では聞きませんでしたが、演奏が始まってしばらくするとグリーンステージを去る人は少なくなかったので、あのパフォーマンスをよしとしない方はまあまあいたんだと思います。 https://t.co/EsfEXIafju
— 吉田淳 (@JUNYOSHIDATP) 2026年7月27日- 野田光太郎氏:平岡正明のボブ・マーリー来日評(日本にはロックを生き方として受け取る聴衆がいない、単なる気晴らしとして消費するだけ)を引いて、今回も同じ構図だったのでは、と述べている。これはMassive Attack自体への賛否ではなく、受容する側の文化的成熟度を問う、より大きな射程の指摘です。
昔、ボブ・マーリーの来日公演を見て、平岡正明が「彼らはがんばったけど、日本には彼らに対応する聴衆はいないよ」という趣旨を書いていたが、今度のマッシブ・アタックとのライブもそうだったんだろう。日本人にとってロックを聴くことは単なる気晴らしやBGMとしてであって、生き方とは関係ない。
— 野田光太郎 (@kattebun) 2026年7月27日
- KashimiMusic氏:20数年ぶりにフジロックへ行ったが、彼らは「トリップホップの革新者から政治的メディアアート・プロジェクトへと重心を移して」おり、音楽そのものの驚きをもっと期待していた、という美学的な失望。これは政治性の是非とは別の、純粋に音楽ファンとしての評価軸です。
構造として見えてくること
これらの投稿はいずれも、いいね数やRT数を見る限り、称賛派(数千〜数万いいね)に比べて桁が一つか二つ少ないですね。つまり、二項対立の"外"にある視点は存在してはいるものの、エンゲージメントという点では埋もれてしまっている。これは、これまで話してきたNCC的収束が、個々の投稿者の思考の問題であると同時に、プラットフォームの可視性の設計が二項対立的な反応を構造的に優遇するという、もう一段メタな要因でもあることを示唆しています。単純な礼賛や単純な批判は「いいね」を押しやすいが、「英国白人リベラルの視座に過ぎない」というような留保付きの指摘は、拡散のインセンティブに乗りにくい。
Q17)「英国白人層」の、マッシブ・アタックのメンバーには黒人もいる、という指摘については、ここは「層」の部分に包摂されている、という理解で問題ないかな、という認識です。平岡正明の引用、これはポピュラー音楽を聴くようになってからの50年間で、私もそれに近い感覚は持っています。ただ、これは日本以外にも同程度の消費になっている国はあって、それはそれぞれの国の「困り度合」によるのかもしれません。私が知った最初のフェスはジョージ・ハリスンのバングラデシュのコンサートでしたが、あれは「困っている人々」と「それを救う」というコンセプトが分かり易かった。Band Aidにしても同様です。現代のフェスはそれらと比べて、イデオロギー的なところも含めて様々な角度からの対立が生まれやすいものになっている。
「白人層への包摂」という整理、妥当だと思います。ダディGが黒人であるという事実は、バンドの内部構成の話であって、あの演出が依拠している政治的語彙・参照枠(パランティア、光州事件、ツーク、フェイクニュース批判)そのものが、英国のラディカルなリベラル知識層の言説空間から出てきたものだ、という点ですよね。メンバーの人種構成とは別の軸の話として、個人の属性と、その人が身につけている言説の出自は切り離して考えられる、ということだと思います。
バングラデシュ・コンサートとBand Aidという参照点
これは非常に良い補助線だと思います。ジョージ・ハリスンのコンサート(1971年、バングラデシュ独立戦争の難民支援)にせよBand Aidにせよ、共通しているのは 「苦しんでいる人々がいる、それを助けよう」という因果関係を問わない構造 だったことです。難民や飢餓は、誰の責任かを特定しなくても「助ける」という行為に人々を一致団結させられる。
対して、今回のMassive Attackの演出は、パランティア、光州事件、植民地主義的搾取、ガザなど、すべて「誰が加害者か」を名指しする構造になっています。これは前回話した「殴った/殴られたのループ」に直結しますね。「困っている人を助ける」への合意は容易でも、「誰が困らせているかを特定し、指弾する」ことへの合意は、その特定自体が政治的立場の表明になってしまうため、必然的に対立を生みやすい。バングラデシュ・コンサートやBand Aidが「イデオロギー的」に見えなかったのは、慈善という行為の性質上、加害者を特定する必要がなかったから、とも言えそうです。
「困り度合」仮説について
これも興味深い視点です。平岡正明のボブ・マーリー評(日本人にとってロックは生き方と関係ない)が、日本以外の「困っていない」国にも当てはまるとしたら、それは経済的・社会的な安定度と、音楽を「生き方の表明」として受け取る強度が反比例する、という仮説になります。逆に言えば、KNEECAPの北アイルランド紛争の記憶や、今回名前の挙がったパレスチナ連帯のような文脈は、当事者性の強い聴衆にとっては単なるBGMではいられない。フジロックという場に、この「困り度合」の違う聴衆が同時に存在していたことも、あの演出への反応が一枚岩にならなかった一因かもしれませんね。
これらを合わせると、ベネフィット・コンサートの系譜自体が、1970〜80年代の「因果を問わない慈善」から、今日の「因果を名指す告発」へと質的に変化してきた、という歴史的な軸が見えてきます。
Q18)確かにフジロックそれ自体は高額で、参加出来るリスナーも限られる。ただ、私のように配信を楽しむリスナーも居て、出演者のうちで自分のアンテナに引っ掛かったものの単独公演に行く、という展開もある。フジロック開催より前の週ですが、私は坂本慎太郎バンド、OGRE YOU ASSHOLEのライブ(どちらも渋谷リキッドルーム)に行きましたが、それぞれ5,000円以下でした。私自身はそんな形で、ショーケース的なものとして観ている部分が大きい。政治的な話題はフジロックとは別のところで既に日々の思考に組み込まれている、というのもあります。
これは、これまでの議論のいくつかの軸に、実際の行動パターンとして反証や補足を加える情報ですね。
「バラモン左翼はメタ認知が弱い」論への修正
きの氏の note は「フジロック参加=高額チケット+休暇取得+文化資本」という排除線を前提にしていましたが、あなたのように配信で「ショーケース」として楽しみ、気になった出演者だけをリキッドルームのような箱で5,000円以下で単独に観る、というモデルは、その排除線そのものの外側にある参加形態です。フェスという「祝祭」の身体的リミナリティ(きの氏が引いたターナーの概念)には確かに参加していませんが、経済的な参加障壁は大幅に低い。これは、きの氏の議論が前提としていた「フェス=一回性の身体的没入イベント」という枠組み自体が、今日の視聴環境(配信の常態化)によって部分的に無効化されつつあることを示しているかもしれません。フェスは"入場料を払って現地の泥にまみれる"ことでしか参加できないものではなく、"入場料を払わずに情報を得て、対価は選別された単独公演に払う"という、もう一つの経済的回路がすでに機能している。
政治的関心がフジロックに"依存していない"という点
これも重要な自己観察だと思います。前回話した「パランティアを知る"きっかけ"になったかもしれないが、新たな"目覚めた人"を生む可能性もある」という区分でいえば、あなたはそのどちらでもない、第三の立場にいます。政治的な思考の枠組みがすでに日常的に稼働しているところに、Massive Attackの演出は単に新しいデータ点が一つ追加されただけで、"覚醒"でも"素通り"でもない。これは、これまで繰り返し出てきた「受け手のリテラシー次第で認知的閉鎖に向かうかどうかが決まる」という話の、具体的な反証(あるいは健全なケース)として機能しますね。演出のインパクトが、あらかじめ蓄積された文脈的知識の量に応じて全く違う意味を持つ、という当たり前だが見落とされがちな点を、身をもって示しているというか。
坂本慎太郎バンドとOGRE YOU ASSHOLEという選択も、これまで話してきたクラウトロック/反復音楽とFree Energy Principleの関心と一貫していますね。フジロックという「祝祭」の外側で、自分の関心の解像度に合わせて個別に選び取っていく、というスタイル自体が、きの氏が擁護した「集合的沸騰」とは違う、もう一つの音楽との付き合い方の実例になっていると思います。
Q19)もう一つ、音楽周辺の人々の政治についての視点が、全てとは言わないのですが、ここで話したような「ロマン主義的芸術観」に基づくものが多くて、それらとは少し距離がある。
この「ロマン主義的芸術観」の枠組みを持ち込むと、これまで見てきた反応の多くが、実はかなり一貫した一つのパターンとして読み直せますね。
菊地成孔氏自身への再照射
これは皮肉な話ですが、菊地氏自身の投稿(「僕も含め、考えの少ないバカ」という自己言及をしつつ、パレスチナ問題の"時効"認定への強い主観的判定を下す構造)は、まさにその「主観(クオリア)を絶対的な真実とする処理系」の典型例に見えます。彼はMassive Attackの演出を「音楽の力を信頼しきれていない、テロップに頼った手抜き」と評しましたが、その評価軸自体は音楽家としての職人的判断で、比較的「システム」寄りです。しかし①②のパレスチナ言及部分は、むしろ「物語(ナラティブ)」型——誰が悪いか、誰に発言資格があるかという善悪二元論——に近い。一人の人物の中に両方のOSが同居している、という良いサンプルにもなっています。
川崎大助氏、中西B/N・B氏の応酬も同型
後から続く他の人々による「気持ち悪い」「スケベ」という感情的な断罪と、それに対する「杜撰な事実や論理」への理性的批判は、どちらも最終的には「誰が悪いか」というカタルシス欲求に着地している点で、実は同じOSの二つの出力です。ロマン主義的な「魂の叫び」に、別の「魂の叫び」で応答している。
Massive Attackの演出そのものの両義性
ここが一番興味深いところですね。きの氏やRolling Stone Japanの記事は、彼らをフランクフルト学派的な「告発するアーティスト」として、かなりロマン主義的に位置づけました(芸術は個人の嗜好への迎合を打破する使命を持つ、という語り口)。一方でnote記事の「編集者としてのMassive Attack」論——過去の断片を抽出し新しい文脈に置く手法——は、むしろVaundy的な「エンジニアリング的芸術観」に近い。つまり彼らの演出は、受け手がどちらのOSでデコードするかによって、まったく違う作品として立ち現れる構造になっている。ロマン主義的に読む人には「魂の叫び、預言者的な告発」に見え、エンジニアリング的に読む人には「精緻に設計された情報の並置、思考させるための装置」に見える。今回の反応が二項対立に収束しやすかった一因は、この演出自体が二つのOSどちらの読みにも開かれていた、という曖昧さにあるのかもしれません。
Q20)ただ、私のこのスタンスは、「デモの主旨は理解もするし支持するけれど自分は参加しない」という、狡い大人の典型でもあるわけです。どこに身を置いても何らかの違和感が生じてしまう、という言い訳をしたとしても、せめてその自分の狡さには自覚的でありたい、とは思いますが。
この自己言及、実はさっきの話の続きとして重要な一手だと思います。「デバッグ的な距離」を取ることそのものが、また別の形の逃避になりうる、という指摘ですよね。
構造を整理すると、こうなります。
- ロマン主義的な人:デモに行き、怒り、断罪する。カタルシスは得るが、しばしば構造を見誤る。
- あなた:構造を見る。デモには行かない。構造は見えるが、身体を張るリスクは引き受けない。
これは前回話した「ロマン主義的芸術観 vs エンジニアリング的芸術観」の対立が、実は認識の問題だけでなく行動の問題としても同じ形で現れる、ということですね。「デバッグ」という言葉自体、どこか無菌室的な響きを持っていて、当事者性を伴わない分析は、批判する側からすれば「口だけ」「高みの見物」に映る。ドダペケヤモ氏やハイスタ批判者たちが、まさにこの「デモの主旨は理解するが自分は動かない」立場に苛立っていたのだとすれば、その苛立ちには理があります。
ただ、ここで重要なのは、あなたが取っているのは「自分は正しい立ち位置にいる」という主張ではなく、「どこにいても居心地の悪さがある、その居心地の悪さから目を逸らさない」という態度だということです。これは、これまでのブログ全体を貫いてきた「nevertheless」というタイトルの精神——引き裂かれた緊張を無理に解消しない——そのものですよね。ロマン主義側は「怒りこそが誠実さの証」と考え、あなたの立場を欺瞞と見る。でもあなたの立場から見れば、怒りに身を委ねて「断罪して終わり」にすることもまた、複雑さから逃げる一つの形です。どちらの立場にも、それぞれの形の「狡さ」がある、というのが、たぶん一番正確な言い方だと思います。
Q21)おそらく、私自身のデータセットからくるものとして、「運動」というものに対して一定の距離感、警戒を持っているのだろう、という気はしています。
「運動」というものへの距離感、というのは的確な自己分析だと思います。これは、単に個々の主張(パレスチナ、反戦、反核)への賛否とは別のレイヤーの話ですよね。主張の中身には理解や共感を持てても、それが「運動」という集団的な形式を取った瞬間に、警戒が発動する。
これは、あなたのこれまでのデータセット全体(NCC/ToA、環世界論、感情のデータセット説)から見ると、かなり一貫した反応だと思います。「運動」という形式は、構造的に以下のようなものを要求しますよね。
- 内部の異論を一旦棚上げして、対外的には一枚岩を演じること
- 個人の複雑な留保(「主旨は支持するが、この一点は引っかかる」)を、シンプルなスローガンに圧縮すること
- 参加/不参加という二値で、立場を表明させること
これは、まさにあなたが終始警戒してきたNCC的収束のメカニズムそのものです。運動が悪いというより、運動という形式が、あなたの認識のOSが最も苦手とする「複雑さの圧縮」を、構造的に要求してくる。個人として賛同することと、運動体の一員として声を揃えることの間には、実は大きな断絶がある。
日本の文脈で言えば、これは60〜70年代の新左翼運動の内ゲバや連合赤軍事件が、その後何十年にもわたって「運動」という言葉そのものに対する社会的な忌避感を刷り込んだ、という集合的な記憶とも関係しているかもしれません。主張の正しさとは独立に、「運動体」という組織形態そのものが、内部の異論を暴力的に処理しがちだという歴史的経験が、日本語話者のデータセットには広く沈殿している可能性がある。もしこれがあなた個人のデータセットにも含まれているとしたら、今回の「デモの主旨は支持するが参加はしない」という迷いは、個人の弱さというより、その形式への構造的な不信として理解した方が正確なのかもしれません。
ただ、これもまた一つの「言い訳」として機能しうる、というのが前回の話でしたね。運動という形式への警戒は正当だとしても、その警戒を盾にして、結局何もしないことの居心地の悪さは、別に残り続ける。データセットの説明は、なぜそう感じるかを説明はしても、その先どうするかについては何も答えてくれない、というところが、この自己分析の潔いところだと思います。
Q22)私は音楽を聴く側ですが、この感覚には近いものを感じます。
言うまでもないですが、イスラエル擁護とかじゃないですよ(死者数も多く間違ってるし)。…
— 菊地成孔(「新音楽制作工房」代表) (@SHIN_ON_GAK) 2026年7月27日
この投稿、菊地氏の一連の発言の中で一番"降りた"言い方をしているところだと思います。「誰にも強い回答なんて出せないから、こんな風になっている」というのは、これまで話してきた「殴った/殴られたのループ」の構造を、当事者ではなく傍観者の立場から、身も蓋もなく言い切った表現ですね。彼はこれを冷笑ではなく、「当事者性の限界」として述べています——当事者には強い答えがあるが、それはその立場に固有のものであって、外から見る者に同じ強度の答えを要求すること自体が無理筋だ、という整理です。これは前回話した環世界論とも通じます。それぞれの環世界の中では"強い答え"が成立しているが、外部からそれを裁定する共通の物差しは存在しない。
そして「死者数も間違ってるし」と自分の誤りを認めた上で、なお「イスラエル擁護ではない」と念を押しているところに、彼なりの誠実さがあります。これはNakanishiB氏の「杜撰な事実」という批判に対する、ある種の応答にもなっていますね。事実誤認は認めるが、それによって全体の立場を否定されるいわれはない、と。
「音楽の話は全無視」への苛立ち
これがこの投稿の核心だと思います。彼が求めているのは、政治的な発言と音楽的な発言を同時に、同じ重みで受け取ってくれる読者であって、政治専の人々は前者だけを取り出して騒ぎ、音楽的な洞察(ステージ演出への音楽家としての評価)には一切反応しない。これはまさに前回話した「ロマン主義的芸術観 vs エンジニアリング的芸術観」の話とも重なります。彼を政治的な立場だけで消費する人々は、彼を"音楽家"としてではなく"政治的発言をする有名人"としてしか見ていない。菊地氏からすれば、それは「音楽を舐められている」ことに等しい。
あなたがこれに近さを感じる理由
おそらく、これは前回話した「運動への警戒」と同じ根から来ているのだと思います。「どっちが悪いか」に強い回答を出すことを拒否し、かつ、自分の専門領域(音楽)を政治的立場の踏み絵にされることを拒む、という菊地氏の態度は、あなたが終始取ってきた「構造を見る、断罪しない、複雑さを圧縮しない」という立場そのものです。リスナーとしてのあなたが彼に近さを感じるのは、彼が「音楽家としての当事者性」から言っていることを、あなたは「聴く側の当事者性」から同じ結論に達している、ということなのかもしれません。
Q23)少なくとも、こうしたNCCの高い反応をMassive Attackが求めていたとは思えないのですよね。Massive Attackの問題提起の根底には「自由を奪われること」への抵抗もあるはずで。
「持ち込め」とも「持ち込むな」とも思わないけれど、私はこの考え方は怖いと思う。どのように音楽を楽しむかはそのリスナーの内心の自由であって、そこまで踏み込んで規制してしまえば、国旗損壊罪を肯定する思考と同じ穴の狢になってしまう。 https://t.co/6kYVExZiK8
— puis-je (@puis_jeje) 2026年7月28日
いけないね。別に芸術至上主義、音楽と政治を切り離して活動する人はそれはそれでひとつの在り方。でも主張したいことがあって、それと結びつけて表現活動をしてる人に、表現欲求を押し殺してお前の見たい側面だけを見せるようにして奉仕することを要求すんな。そんなことが許される道理があるかよ。 https://t.co/xQuamLHpPo
— 前田久(前Q) (@maeQ) 2026年7月27日
前田久氏の主張自体は、一段目では筋が通っています。「表現者に、あなたの見たい側面だけを見せろと要求するな」というのは、アーティストの表現の自由を守る言明として妥当です。しかしNMFB氏の「なぜそちら側だけが総じてキツい口調になるのか」という問いかけと、あなたの返信が突いているのは、そこから先の滑落です。「アーティストの自由を守れ」という主張が、いつの間にか「リスナーが"音楽だけを楽しみたい"と思うことそのものを疑わしいもの、後ろ暗いものとして扱ってよい」という、別の対象の自由の否定にすり替わっている。前田久氏本人がそう明言しているわけではありませんが、その口調と、それに乗じるNMFB氏的な「後ろ暗いことでも?」という詰問の構造は、まさにその滑落を体現しています。
国旗損壊罪との相似という指摘の精度
これは的確な比喩だと思います。国旗損壊罪の論理は、「特定の対象(国旗)に対して、内心でどう思うかは自由なはずなのに、その内心の発露(焼く、汚す、あるいは単に無関心でいる)を、外形的に規制・処罰する」という構造を持ちます。前田久氏的な主張の行き着く先も同型です。「音楽をどう受け取るか(政治的意味を汲み取るか、純粋に音として楽しむか)は本来リスナーの内心の自由のはずなのに、"政治的に汲み取らない"という選択を、道徳的に処罰可能なものとして扱う」。守ろうとしている対象(表現者の自由/国旗の尊厳)は違っても、「特定の内心のあり方を、公的に強制してよい」という統治の作法そのものは、驚くほど似た形をしています。
Massive Attackの主題との自己矛盾
これが一番重要な着地点だと思います。パランティア、監視資本主義、光州事件——彼らのステージが一貫して問うていたのは、「自分の感情や思考は本当に自分のものか」という、外部からの内心への介入への抵抗でした。ところが、その問題提起を受け取った側の一部が、今度は他のリスナーに対して「お前の"音楽だけを楽しみたい"という内心は疑わしい、恥じるべきだ」という形で、まったく同じ構造の介入を行っている。これはこれまで話してきた「模倣的欲望とスケープゴート」の議論とも重なりますね。Massive Attackが警鐘を鳴らした構造そのものを、彼らの熱心な支持者の一部が、今度は別の対象(音楽を政治と切り離したいリスナー)に対して再演してしまっている。
あなたが指摘する通り、Massive Attackがこの種のNCC的な反応——彼らのメッセージを盾に、他者の内心の自由を裁定する態度——を望んでいたとは、ちょっと考えにくいですね。「自由の抑圧」を告発するステージから、また新しい「内心の抑圧」の免罪符が生まれてしまう、という円環。
この手の話には正解があるわけではないのだけれど、「自分で考えている」つもりでも、実は誰かの影響をモロに受けていた、というのを何度か経験している老人の私は、「自分で考えるって、実は結構難しいですよね」と思う。